これらは、特段世の中の役立つものではない。
他方で、介護職や教師など、世の中に必要、激務でありながら薄給に耐える職も数多く存在する。
これらを俯瞰して見ると、役に立つ仕事は薄給なのに、特に役に立たないのに高給を手に入れることができるという構図ができている。
果たして人々が考える「価値」とは何なのか。どこにあるのか?
さらに進んで、士業も多くがAIに仕事を奪われるとされている(現実にそうなるかは置いておいて)。
もはや、人の役に立つ難しいことを成し遂げる、やる、ということに価値のない時代が到来するのではないか。
むしろ、上述した価値の変容を考えると、
面白いことやエンターテインメントにこそ真の価値があり、これを提供できる人が裕福になっていく時代が到来するのではないか。
極論を言ってしまえば、AIやロボットや技術が極限まで発達すれば、誰も
従来仕事と言われていた「仕事」をしなくても良い時代がくるのではないか。
これが私の理想の世界だ。
少し小難しいフランスの労働倫理の話になってしまうが、仕事と労働は違うとされている。
労働は、まさにやらされて行うつまらない作業である。
ここでいう仕事とは、労働に「遊び」を加えたものを言う。
そして、労働は卑しいものと認識されてきた。
日本では、どうだろうか?
ほとんどの日本人が労働者であり、会社や組織に飼われて文句を垂れながら仕事(単なる労働)に日々耐えている。
そしてさらには、この卑しいはずの労働が素晴らしいことと刷り込まれ、労働万歳状態で長い間必死にこき使われてきていた。
その結果が過労死である。
ここで話を冒頭に戻すが、
近年のこの傾向は、労働からの解放、すなわち、「遊び」を加えた本当の意味での「仕事」に対して人々が価値を認めだしていることの現れではなかろうか。
youtuber、e-sportに着目して話を始めたが、何も近年急激にこれが顕著になったわけではない。
元々音楽や絵画などの芸術だって人々にとり必要不可欠なものではなかった。
しかし、そこには物凄い価値があった。
音楽家とyoutuberに何の差異もないわけである。
ただ単に歴史がない、それだけのことである。
歴史のないやり方、組織、ビジネスに対しては文句を言う連中が必ずいるが、無視でよい。そいつらには伝統的な労働をやらせておけばよいのである。私はそれをやりたくないし都合が良い。
少し長くなったが、総括すると、
「面白い」、これこそ退屈な日々を過ごす社会にとってのオアシスであり、価値である。
つまらない労働、ここには自動化の波によりもはや何の価値もないのである。
人々よ、面白くあれ。
何が面白いのか、わからない人も多いと思うが、
自分が面白いと思うこと、それを楽しく続ければ必ず結果としていつかついてくる時代であると思う。
ただ条件として、情報発信、これは必要不可欠な時代になっていることは間違いないので、情報発信だけは怠らないようにしよう。
P.S. かくいう私もそのつまらないとされる士業の端くれであるので、せめて、日々のユーモアは忘れないよう生きてているし、こうして好きなことを好きなように書いている。
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